戻る?
 秀治の身体が倒れるのを確認せず、芳野は横に飛びながら上を見上げた。弾を見切ることはできても、一斉に射撃をされては避けられないと思い、とにかく動き回ろうとしたからだ。しかし、上に銃口はなかった。
(どういうことだ?)
 芳野が感覚を研ぎ澄ませる。さっきまで上にいたはずの人間は、半分以上が消え去っているようだった。残った者も、こちらを攻撃する意志はないようだった。
 一人の男が上から降りてきた。深緑の軍服を着ている。手には何も持っていなかった。
「あなた方を攻撃する気はありません」
 男が両手を上に挙げて言った。芳野は警戒を崩さなかったが、男は気にせずに秀治の元に歩いていった。うつぶせに倒れた秀治の身体を引っくり返して、瞳孔の開きを確認する。間違いなく死亡したとわかると、男は秀治の腕を自分の肩にかけ立ち上がった。
(まさか、あそこから蘇生できるのか!?)
「待て!」
 芳野が男を声で制する。男は芳野を見据えて言った。
「天地秀治は完全に死んでいます。死亡した感染者が復活することはありえません。我々の次の任務は感染者の死体が公に出ることを防ぐことなのです」
 天地秀治も戸籍上は死んだ人間になっているのだろう。回収した死体は、極秘裏にどこかに運ばれ、場合によっては解剖など様々な実験に使われ、処理されるのだと男は言った。そして、我々の運命もこれと同じだと。人権のない秀治に、芳野は自分の末路を重ねて想像して、暗い気持ちになった。
「俺たちは放っておいていいのか?」
 まだ怒りの収まらない芳野が男に突っかかる。男は笑った。男の顔に浮かんだ表情を、芳野は寂しげだと感じた。
「急がなくても、また次の保護官が来ます。我々はあなた方がこの保護官でも手に負えなかったと報告する義務を持ちます。下手に交戦して少ない戦力をこれ以上割くのは得策でないということです」
 男は芳野に背を向けた。完全に無防備だ。崖の上にいる人間は男を見守っているように見えた。口封じの為にこの男を倒しても、既に去った人間の口から報告はなされる。芳野は男を見送ることにした。
(もう人殺しは沢山だ)
 秀治の首の骨が折れる音が頭に残っていた。感染者であっても、悪人であっても、芳野が殺したのは人間だった。芳野はそのことを忘れないだろうし、忘れたくないと思った。
 男が階段に足をかけた。
「感染したものが皆、納得してここにいるとは思わないで下さい。人を殺したくなくても、この道しか選べなかったんだと言う人がいることも、覚えていてください」
 男は腹の底から吐き出すように言った。芳野は自分が聡美の傍に近づていく時に、撃たれなかった理由がわかる気がした。命令だから撃たなかったのではなく、撃ちたくなかったから撃たなかったのだ。人殺しはしたくないが、自分を守るためには従うしかなかったのだろう。言い訳にしかならないが、芳野は責める気になれなかった。また、資格もないと思った。自分もたった今、自分が生きるために一人の人間を殺したのだから。
 男が上に上がって、やがて残っていた人間全員の気配が去っていった。芳野は聡美と未緒を見た。右腕の肘あたりまで無くなった聡美の身体を見ながら、芳野は自分の左手首に触れた。芳野は一番親しかった女友達の為に黙祷を捧げた。
 携帯電話をとって、短い番号を押す。事務的なアナウンスの後、芳野は場所を告げて、人が死んでいます、とだけ言って、応対する人の聞き返しも聞かずに電話を切った。
 未緒の傍へ行き、しゃがんで様子を見る。身体をくの字に折って倒れていたが、時々うめき声が聞こえていた。
「大丈夫か?」
 芳野は尋ねた。左肩と右肘の穴からは血が止まっていた。未緒は芳野の声に気付いて、はい、と小さく返事をする。あまり大丈夫そうには見えなかった。
「殺し……たんですね……」
 未緒が血の垂れる口で言う。肋骨が折れているようで、声を出すのも辛そうだった。他人の口からそう宣告されて、芳野は自分の罪の重さを再確認する。
「ああ……」
 未緒が咳き込んだ。小さい血の固まりを吐く。芳野は未緒まで死ぬことを恐れた。たった一人でこれから生きていくのは寂しすぎた。
「その怪我……、もう一度俺の手を食えば治るんじゃないのか?」
 芳野は今度は右手を出した。左手を残したかったからだ。未緒が無理です、と首を振る。
「何故無理なんだ?もしかして死ぬ気なのか?」
「感染した人の身体では再生効果がないんです。細胞の再変換に抵抗する免疫ができてしまって」
 芳野は変わってしまった自分の身体が恨めしかった。
(聡美。もう一度だけ許してくれ)
 芳野は未緒を横抱きにして聡美の傍まで連れていこうとするが、未緒が弱々しく首を振った。
「わたしは……いいです。このままにしてください」
「だめだ。生きるんだ」
「もう……生きる目的は……ないです」
「そんなもの誰にも無い」
 芳野がきっぱりと言いきる。未緒が驚いて芳野を見た。目に少しだけ生気が宿る。
「じゃあ……、なんで生きないといけないんですか」
 芳野は黙っていた。自分も今まで理由があって生きてきたわけではない。その時その時の生き甲斐はあったが、それを見失ってもまた次の生き甲斐を見つけてきた。結局、理由なんて後から湧いてくるものだと芳野は結論付ける。だが、どう言えば未緒に芳野の考えが伝わるか芳野にはわからなかった。言葉を選ぼうとする芳野の顔を、未緒がじっと見つめる。
「一般人はとにかく生きてればいいんだ、生きてれば」
 結局、そんな言葉で話を濁した。
 全然説得にならないな、と芳野は思った。
 未緒の目から涙がこぼれる。芳野は何故泣くのかわからなかった。
「おい」
「ごめんなさい……」
 涙を拭かずに、未緒が笑おうとする。無理矢理作った笑顔だったので、変だった。
「一般人なんて言葉使うから」
 未緒が芳野の肩に手をかけて、自分の足で立つ。芳野から離れ、聡美の傍に膝をついた。
「芳野さんの……恋人だったんですか?」
「いや……」
 未緒が両手を握って祈りを捧げる。芳野はその姿をぼんやり見ていた。
「わたし、疲れてここに転がり落ちて、追いかけて来たこの人に、近寄らないでって言ったんです。この人はすぐに止まってくれたんですけど、何も聞かずに『救急車呼んでいい?』って。空を飛んでくるような変な人間を普通に扱ってくれて」
 未緒が顔を上げる。聡美の左手にそっと触れる。芳野は未緒から目を逸らした。
 芳野の恐れる音は、いつまで経ってもしなかった。
「わたしが誰も呼んじゃだめって言ったら、この人は座ったんです。誰も呼ばないから、芳野さんが目を覚ますまでここにいてもいいかって。それからすぐにわたしも気を失って。……こんなことになってしまって残念だけど、この人のおかげでわたし達は生きているんですね」
 未緒は聡美の手を強く握り締めた。何も言わずに手を放し、立ち上がる。右手で胸を押さえながら、ゆっくりと芳野の元に戻ってくる。
「おい……」
「平気です。死にません。必要なものはもらってきました」
 未緒が笑う。今度は本当の笑顔だった。芳野は泣きそうになって喉を詰まらせた。聡美をこれ以上傷つけまいとする未緒の気持ちが嬉しかった。
「そ……そうか」
 芳野は咳払いでごまかし、後ろを向いてしゃがんだ。
「乗ってくれ。その傷じゃ動けないだろ」
「あ……はい」
 未緒が芳野の背中にしがみついた。これなら自分の顔を未緒に見られる心配が無かった。芳野が立ち上がる。未緒の身体は軽かった。
 芳野は未緒を背負って橋を渡る。特に行き先も無いので、そのまままっすぐ歩いた。夜が明けるまで歩こうと思った。パトカーのサイレンが遠くから聞こえた。

[EOF]
戻れ。