戻る?
 目覚めると、目覚し時計が鳴っていた。たっぷり一分使ってその事実に気付き、そのままの姿勢で枕元の時計を叩く。訪れた沈黙に釣られて、俺はまどろみの世界を満喫した。
 部屋のドアがバタンと開き、聞こえてきた母の怒声に飛び起きる。母は布団をたたむように言い残してさっさと出ていった。時計の長針はさっきと同じ所を指していたが、短針は指していなかった。
 着替えを済ませて階下に降りると、居間にあるテレビは天気予報を映していた。近畿地方の地図に太陽や雲や傘のマークが転々と表示されている。大阪は曇りのち晴れところによりにわか雨が降るでしょうお出かけの際は傘を忘れずに。しばらくすると降水確率に切り替わった。五十。
 役に立たない情報だ、と俺は思う。近畿地方で晴れでも曇りでも雨でもない天気などそうそうあるわけがない。降水確率も五十とは一番判断がつきにくい。元々降水確率とは過去の同じ季節同じ気圧配置において何回雨が降ったかの割合であると中学の時の理科の教師が言っていた。つまり過去と照らし合わせてみても降るか降らないかは何とも言えないというわけだ。これでは情報を知らなかったときと大差ない。
 が、普段から折りたたみ傘を持ち歩いている俺には関係ない話だ。
 だらだらと朝食を取り、日課になっているテレビの星占いのチェックを終えてから家を出る。通学には電車で四十分かかり、今現在微妙な状況にあった。これを乗り損ねれば遅刻と言う電車に乗り、ここで失敗すれば遅刻と言う乗換えを決行する。改札を出ると予鈴まであと五分だった。そして駅から学校までは走って五分だった。
 俺はいつもここで迷う。学校には正門と通用門があり、通用門の方が駅に近い。しかし通用門は予鈴が鳴ると同時に閉ざされる。そうなると正門まで行かねばならないのだが、これが結構回り道でしかも教室からも遠ざかってしまうため、さらに走らねばならなかった。
 できれば通用門へダッシュで行くべきだ。だが、もしゴール直前に予鈴が鳴ればそこからさらに走るのは絶対に避けたい苦行だった。自分の過去の経験に照らし合わせると間に合う確率は全力で走って、五分。
 迷う俺の脇を一人の女生徒が駆け抜けて行った。俺には後姿でそれがクラスメートだとわかった。彼女は一心不乱に走っていた。間に合うことを確信している走りだ。俺は遅れて走り出した。
 彼女と足の早さは大差なく、二十メートル先を行く彼女の背を、俺は必死に追いかけた。折りたたみ傘の入った鞄の重さが恨めしい。学校の塀が見え、通用門まであと五十メートルという所で審判の鐘の音が鳴り響いた。俺の更なる加速も虚しく、彼女は滑り込みセーフで、俺は惜しくもアウトだった 。進路指導の頭の固い体育教師(独身)が俺の眼前できっちり鍵を閉める。文句の一つも言ってやりたいところだが、この教師には何を言っても無駄である。息を切らして無常に閉ざされた校門を見ていると、彼女が振り向いてこちらを見た。勝利を自慢するような笑顔に見えた。妙に悔しかったが、俺は正門へと急いだ。くそう、今日は最初に迷ったのがいけなかったんだ。
 何もない授業が始まり、何もない一日が終わった。雨は降らなかった。
 今朝もぎりぎりに家を出た。星占いは一位だった。駅を出て、昨日の女生徒の姿が見えた。先手必勝、俺は迷わず全速力で彼女を追い抜かした。後ろの方で走り出す音がする。俺は最初から飛ばしていた。学校の塀が見える所で降り返って彼女の位置を確認した。彼女は昨日の俺と同じ位置にいた。俺は勝利を確信した。かに見えたが、いつのまにか外れていた靴紐をもう片方の足で踏みつけてしまい、俺は盛大にすっ転んだ。すぐに起き上がり再び走ったが、彼女との距離はかなり縮んでしまった。恥ずかしさを感じる間もなく、滅びの合図が聞こえてくる。俺は走ったが、転ばなかった場合の俺が間に合うタイミングで、無常にも門は施錠された。息も絶え絶えにがっくりとうなだれる俺の横を、彼女は軽やかに走っていった。初めから正門を目指すための走りだったのだ。脇腹を押さえながら俺は遠ざかっていく彼女を追いかけた。一時間目は気分が悪かったので寝た。
 また一日が過ぎた。
 目覚し時計が一時間早く鳴り響く。時計を叩いて俺は飛び起きる。親も起きていないこの時間に俺はさっさと着替えを済まし、朝食を食べ、靴をしっかり結び、近所を軽く走りこんだ。少し曇り気味ではあるが朝日を一杯に浴びた全身は驚くほどすがすがしい。今日は一片の油断もなかった。家に戻り、ぎりぎりの時間になるまでテレビをつけて気持ちを落ち着ける。
 五月三日金曜日今日のお天気は大阪府曇りのち晴れところにより。

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戻れ。