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「ゾンビ?それが今度のネタか」
 校庭のセミがいい加減うっとおしくなってくる頃、西日のきつい教室には人がまばらだ。
 放課後になって30分が経過すると、他のグループよりはるかに真面目な掃除係C班もとっくに清掃を止め、各々の放課後ライフを満喫するべく、帰宅したり部活に身を投じたり教室で談話したりしている。
 現在この教室には2〜5人の固まりが点在していた。こういう時、グループになるのは大抵同性同士であり、二人組は大抵カップルだ。それぞれのグループはお互いの声が聞こえているが、漠然と聞いているため自分の名前やらが出てこない限り、お互いの話は気にしない。カップルに至っては、何を言っていても聞く耳を持たないのが通例だ。よって、ゾンビ話を始めようとしている二人組の話を聞く者は二人以外にはいなかった。
「んん、まあネタにするようなしないようななんだけど。ホラーっぽいの書こうかなあって」
 赤井聡美はそう言いながら、学級日誌を素早く埋めていく。細い身体と柔らかいくせっ毛のポニーテールが見る者に繊細なイメージを与えるが、書く文字はそのイメージをぶち壊すほど荒々しい。下敷きを敷いていないので、書いた部分が次のページに跡をつけていく。一時限目、現国。教師、荒田(60点)。
「その点数はなんだ?」
 もう一方の話し手、水上芳野は日誌を見て言った。どちらかと言うとやせ気味の身体に、夏だと言うのに白い肌は虚弱児かと思わせるが、部活が単に室内と言うだけで、柔道部の中では中々の強さだ。
「今日の小噺の評価」
 現国教師の荒田は毎回必ずと言っていいほど授業と関係ない話をする。確か今日は魚を焼くためのグリルでスポンジケーキを焼いてみたとか言っていた。芳野はスポンジケーキの味よりもあのごつい荒田がスポンジケーキを作るという事実に恐々としていた。
「厳しいな」
「適当だし。でさ、吸血鬼とかゾンビの怖さは元が人間ってことにあるわけなのよ」
 聡美は日誌の自由記述欄にしゃかしゃかと落書きを始める。卵のような顔を描いて、目鼻口を入れ、口元には2本の小さな牙を忘れない。お世辞にも絵心は無かった。
「それを言ったら幽霊もだ」
「あ、そっか。じゃあそれも。で、元が人間だと何が怖いかって言うと、仲間を増やせることなのよ」
 なるほど、吸血鬼にもゾンビにも、襲われると自分もそれになるというのは良くある話だ。幽霊も、死んだ人間がなるものなら、取り殺すという行為は仲間を増やすものだと考えられる。無差別に人を襲う幽霊は「悪霊」と言った方がいい気がするが。
 芳野は机の中の教科書を数冊抜いて鞄に詰める。机にはまだ何冊も本とノートが詰まっているが、塾に必要な分以外すべて置いていくのはいつものことだ。
「まあそれは思う。でっかい化け物よりも身近な人間が襲ってきたときの方が見てて怖いよな」
 芳野は今まで見てきたホラー映画の自分内ランキングを考えながら言う。
「うん。で、化け物側になっちゃった人って何を考えるんだろうって考えてたんだけど」
 日誌を全部埋めて聡美も帰宅の準備を始める。落書きは残したままだった。芳野は席を立って、黒板の日直の文字を『石田・泉』に変えて教室を出た。遅れて聡美も日誌を持って出てくる。
 廊下の窓は全部開いていて、四階という高さも手伝って結構強い風が吹いていた。
「普通、そういうときは何も考えられなくなるんじゃないか?」
 映画で見た限り、ゾンビになった人間は何も考えずにただ人間を襲っているような気がする。吸血鬼も、血を吸われた後は吸血鬼の操り人形になったり、吸血鬼よりも格の低いグールになったりする。何故か性格だけ豹変する理性ある吸血鬼もいるが。
「そういうこともあるけど。それだと何か洋画のばったばった化け物殺していくだけのような話になるでしょ。そんなんじゃなくってもっと深い話を書きたいの」
 階段まで来ると風が途切れる。二人は並びながら階段を降りていく。聡美は横に並ぼうとするが、その都度階段を昇って来る生徒達に遠慮して芳野の後ろに留まった。
 聡美は小説家志望だった。芳野がそれに気付いて、聡美と話すようになったのは殆ど偶然だ。小汚い字のノートが落ちてあるのを芳野が拾い、解読してみようと思い立たなかったらこうした話をすることはなかった。普段は小説を読まない芳野だが、同級生が書いている小説というものには興味が湧いたし、実際聡美の書く小説は心理描写が独特で面白かった。そんな感想を漏らして以来、芳野は聡美の書く小説を一番に読ませてもらっている。
「んじゃ、吸血鬼みたいなやつで、まともな思考ができるんだな」
「うん、そんな感じ。ねえ、例えば水上君がもしこのまま吸血鬼になっちゃったらどうする?」
 聡美が立ち止まる。失礼しまーす、と言って聡美は職員室に入っていった。芳野は入り口に立って聡美の言ったことを考えていた。
(吸血鬼になるメリット……。不老不死になる、特殊能力が使える、くらいか。逆にデメリットは十字架、にんにくに弱くなる、昼歩けなくなる。もし自分がこのままなら特にいいことないな……。)
 芳野は理想の死に方は「老衰」といって憚らない。不老不死になることはちっともメリットではない。特殊能力が使えるといっても、吸血鬼ができることといえばコウモリに変身したり催眠術が得意になったりするだけだ。デメリットの方がはるかに大きい。夏の間は半日以上外を歩けなくなるのである。
 失礼しましたー、と日誌を置いてきた聡美が出てくる。
「何もすることがなくなった。どうしようか?」
「は?ああ、吸血鬼のことね。そんなことないと思う。絶対しなきゃならないことがあるわよ」
 芳野が首を傾げていると、聡美がすぐに答えを言う。
「食事」
「ああ、そうか」
 吸血鬼といえども栄養は必要なんだな、と芳野は思った。何も食べなければ衰弱死するのか、という疑問も浮かぶが。吸血鬼の食事といえば人間の血と相場は決まっていた。
「なるほど、正気を持ってる人間がいきなり血を吸えるかってことだな」
「そうそう。で、どっちだと思う?水上君は」
 二人で校門を出て下校する。
「あ、今日部活はいいの?」
「ああ、この前の試合で三年生は引退なんだ」
 先月の試合を芳野は思い出す。自分は副将戦で見事に一本勝ちしたが、団体としては負けてしまった。個人戦は一回戦で優勝候補に当たってとっくの昔に負けている。
「もったいないね。あんなに強いのに」
「上が多すぎるけどな」
 芳野は技を覚えるのは好きだったが、身体を鍛えるのはあまり好きではなかった。高校生という段階で、鍛えるものと鍛えないものの力の差を技術で埋めることは不可能に近い。
 引退した芳野の次の課題は、今までさぼってきた勉強のツケを清算することだった。
 聡美の家は学校と芳野の通う塾の延長線上にあるため、一緒に帰ることになる。誰が見ても恋人同士のようだが、本人たちは肯定も否定もしていなかった。
 歩道には所々アーケードがあり、強い日差しを遮ってくれる。セミと絶え間無く走る車がうるさい。
 考える時間をくれたのか、二人は無言で歩いていたが、先に口を開いたのは芳野の方だった。
「そうだな……やっぱり生きていたいしな。案外開き直って吸うんじゃないか?」
「そうなるかなあ?結構吸うのに抵抗あるんじゃないかなあ。やっぱり人間は人間でいたいと思う気持ちが強いんじゃない?」
 なるほど、知性を持った怪物が異形の姿に苦悩する、というのもありふれた話だ。吸血鬼というのは、血を吸った時からなるものなのかもしれない。
「けど、もう人間には戻れないんだろ?なら、人間の道徳観なんて大事にしててもしょうがないんじゃないか?食わなきゃ死ぬんだし」
「まあそうなんだけど。そこをほら、あっさり開き直らずに愛する人間の血を吸うか吸わないかとかに追いこまれればドラマになるでしょ」
「なんでだ?好きな人ならずっといっしょにいたいんじゃないのか?それこそ迷わず吸いそうだけど。お、それじゃな」
 芳野の通う塾の前に来た。特に話を伸ばすわけでもなく芳野は塾に入る。聡美が何か言おうとしたが、芳野がそれに気付く前に去っていった。
 聡美が構想を練る段階で芳野に相談に来るのはいつものことだが、芳野の意見が聡美の小説に取り入れられることは稀だった。聡美はああやって話している間に、既に話の半分ほどを考えている。これは相談というよりも、執筆の合間の息抜きのようなものなのだと芳野は考えている。
 聡美は、書いた小説は必ず雑誌に投稿しているらしい。もしかしたら、聡美の書いた小説が本屋に並ぶ日が来るかもしれない。そう想像すると、芳野の顔に自然と笑みが浮かんだ。
(俺も何かしなきゃなあとは思ってるんだけど)
 芳野にはこれといった特技がない。8年間続けてきた柔道も、大した成績を残すことなく受験を理由にすっぱりとやめ、趣味の映画も見ること専門だ。目下の目標はこの良いとも悪いとも言えない中途半端な成績を引き上げることだった。志望大学に入るにはぎりぎり足りないという学力。受験勉強を始めてそろそろ一ヶ月が経つが、そろそろ塾の講義も新鮮味が薄れて退屈になってきていた。
(ま、できることからやらないとな)
 芳野は軽くため息をつきながら、階段脇のエレベーターに乗った。

[EOF]
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