戻る?
 塾は十時まで芳野を拘束した。
「うん、飯は食べたから。もう用意してた?……ならちょうどよかった。じゃ」
 携帯電話を切って、芳野はコンビニエンスストアに入った。塾の帰りはここに寄って映画雑誌を読むのが、芳野の日課になっていた。活字が好きではないので、巻頭特集と好きな俳優の特集、VHSの発売スケジュールなどを簡単にチェックするだけで終わる。
 芳野は夜食用のおにぎりを買って店を出た。外はすっかり暗くなっている。半月と三日月の間くらいの月に薄いかさがかかっている。芳野は凝った肩をほぐすために首を回した。
 通りにある店の半分はもう閉まっていた。セミの声は途絶えていたが、車は相変わらず多かった。芳野は一つ目の交差点を折れて、池のある公園を通って家に帰る。もう少し早い時間ならウォーキングに来た人が見かけられるが、この時間だと人は少ない。池沿いの舗装された道を歩く。池に浮かんでいる草が、水面に合わせて規則正しく揺れている。中央の小島へ渡る橋は、ずっと前の台風で壊れていた。向かいの橋が丈夫だったため、こっちの橋の修理はずっと先延ばしにされている。
(ビデオ屋にも寄るか)
 今日は塾で十分勉強したから、夜は自由に過ごしたかった。最短距離を通るために雑木林の中を突き進む。林といっても単に木がこの付近に集中しているだけで、普通に通るだけなら1分もいらないような所だった。密集した葉が周囲を暗くするため雑木林の中心には申し訳程度に外灯が一本立っている。芳野の足元がコンクリートから草に変わる。
「ん?」
 芳野は外灯の近くの木にもたれて座っている人影に気がついた。遠目でよくわからないが、ぐったりと倒れているのはわかる。芳野は驚いて立ちすくんだ。
 そのまま後退ろうとする足を見て、芳野は我に返る。
(馬鹿、人が倒れてるんだぞ。とりあえず行かないと)
 何があったのかわからないが、とりあえず細心の注意を払って人影に近づいていく。他に人の気配はないようだが、芳野の緊張感は高まっていく。
(怪我……してる?)
 人影は女だった。あちこちの服が破れ、破れたところから赤い色がにじんでいる。一瞬、暴漢に襲われたのかと思ったが、破れているのは主に上半身で、スカートはあまり破れていない。特に腹のあたりが真っ赤になっている。
 女の前に立つと、女が荒く呼吸をしているのがわかった。こちらに気を回す余裕もないのか、単に気付いていないのか、顔を上げようともしない。話を聞こうとしゃがみこんだときに、女の腹が妙にへこんでいることに気付いた。真っ赤なのも当たり前で、腹がごっそりと削られている。
「おい、大丈夫か!?」
 腹のない人間が大丈夫なわけがない。言ってから芳野は間抜けな質問だということに気付く。女の荒い呼吸が続く。
「おい!」
 芳野は重傷の人間を見るのは初めてだった。だから、女の傷がもはや致命傷であることにも、傷の深さにしては出血が少なすぎることにも気がつかなかった。必死で女に呼びかける。女は無反応だった。
 とりあえず救急車を呼ぼうと携帯電話を取り出す。
「今救急車を呼ぶ!……いや、それよりこっちの方が近いか」
 芳野は近くにある、叔父が経営している診療所を思い出した。叔父は帝大出で、腕は確かな医者だった。とりあえず自分のシャツで止血して、担いだ方がいいだろう、と判断し、芳野は鞄を置き、カッターシャツを脱ぐと、それを女の腹に巻きつけた。女がようやく芳野に気付く。
「……」
「しっかりしろ、今から病院に連れていく!」
 女を担ごうとする芳野の手を、女が掴んだ。どうしたのか聞こうとして、芳野は初めて女の顔を見た。自分と同じくらいの年齢の女の子だった。頬にも酷い線状の傷が走り、削られている。芳野が口を開く前に、女が芳野の方へ倒れこんできた。
「おい、しっかり……」
 女の顔が途中で止まる。ごり、という音を芳野は聞いた。音は女の顔のあたりから聞こえてきた気がする。顔を上げさせようと掴まれていた手を上げて──。
 芳野の親指がなかった。女が芳野の左手から噛み千切っていた。それを見た瞬間に痛みよりも驚きが生まれ、次に熱を持ったように熱くなってくる。
「う、うわぁ!」
 芳野が裏返った声で悲鳴を上げる。頭の中は完全にパニック状態だったが、女の口が再び芳野の手に向かうのを見て、反射的に振りほどこうとする。だが、女の力が思ったよりもずっと強かった。骨が折れるかと思う怪力で女は芳野の手首を掴み、放さない。
 もう一度ごり、という音と共に今度は人差し指と中指が千切られた。その光景を目撃した分早く頭に痛みの信号が伝わる。恐怖で身体が思うように動かないが、それでも半ば無意識に引き離そうと、女の襟元に右手をかける。
「わたしは……生きる……」
 芳野は女の声をはっきりと聞いた。かすれているが、強い意志のこもった声。相手が重傷で、女の子であることも芳野の技を躊躇させる原因になった。左手の指が全て食べられ、女の口が手首に来るまで、芳野はその光景を映画でも見るように見続けた。
 女の口が離れる。芳野は手首までなくなった左腕を押さえた。女が再び芳野の方へ寄りかかり、今度は芳野の肩に当たって動きを止めた。気を失ったようだ。芳野は女を起こさないように地面に寝かして立ち上がり、腕を押さえたまま女を見下ろした。それは、自分の左手を食べた化け物、人の形をした人でないものだった。
 芳野の腕から流れ出た血が地面に落ちた。芳野は腕の止血の為にTシャツを脱ぎ、片手で不器用に巻きつける。なくなった自分の左手は女の胃の中だ。
(あ、胃はなさそうだな……)
 恒常的な痛みにようやく慣れ、思考がハイテンションなまま安定する。とりあえずこのまま叔父の診療所に行きこの傷の手当てをしてもらい、警察に電話……。
(その腕はどうしたんだい?)
(この子に食われました)
 誰に言っても信じてもらえない気がした。そんなことより女をどうするかを考えるのが先だった。深い傷でパニックになって芳野の左手を食べたわけでは決してない。骨まで砕く強靭な顎を持った怪物なのだ。気を失っている今がチャンスだ。止めを刺せるのなら刺しておくべきだ。が、下手に手を出すと再び目覚めて自分を襲うかもしれない。討つべきか逃げるべきか。
(生きる……)
 芳野は女の言葉を思い返していた。化け物、自分を食った、女の子、生きようとしている、人を襲う、死にかけている、……命。
「くそっ」
 芳野は女を背負った。左手が接触の時に痛みを訴える。顔をしかめながらも芳野はしっかりと女を背負い、腹の傷に響かないように静かに歩き、雑木林を後にした。
 女の身体は、酷く軽かった。

[EOF]
Next
戻れ。