芳野の叔父、水上重雄の外見的特徴を一言で言うなら「野蛮人」だ。医者という職業上清潔にしてはいるそうだが、ぼさぼさの髪と伸ばしっぱなしの髭を見れば誰だって思う。しかも口が悪く、子ども相手にも下品な冗談を言ったりするものだから、近所の人間からは不評だった。しかし、腕は確からしく、診療所はいつも満員だった。もちろん、この時間に表口が開いているわけはなく、芳野は裏口のインターホンを押した。しばらくして、何の返事も無しにドアが開く。 「なんだ、急診は表に回れよ。緊急診療の病院までの地図があるぞ、ってお前か。久しぶりだな」 冗談を言う割にはきちんと白衣まで着た重雄が顔を見せた。芳野の顔を見て気が抜けたような顔をするが、芳野が背負っている女のわずかに見える頬の血に気付いて、重雄は顔を引き締めた。 「俺はお前の暴行の後始末なんか引き受けないぞ。やばいと思ったらヤクザに持っていけ。女の始末はやつらが専門だ」 「重傷なんだ」 重雄の冗談を気にもせずに、芳野は女を重雄に渡した。重雄は女の腹に巻かれた、血に染まったシャツに気付いてすぐに中に入っていく。芳野は何も言わずそれについていき、ドアの鍵をかけた。 診療所の中は暗かった。小さい靴脱ぎ場の後、リノリウムのつるつるした床が奥へ一直線に続いている。廊下の中ほどの部屋の明かりがつく。芳野は明かりのついた診察室に入った。 診察室は受付とひとつながりになっていてL字型をしている。芳野が入ったところから一番近いところ、すなわちLの字が折れる位置の隅に重雄の机があり、そこから奥に向かって診察椅子、仕切、ベッドと続いている。重雄は女をベッドに寝かせて診察を始めていた。診察を覗くのは心理的に躊躇われたが、女の正体を知っている芳野は、重雄と女を二人きりにしておけなかった。重雄もちらりと見ただけで、特に芳野を咎めようとはしない。 「何か事件に巻き込まれたのか?」 重雄が腹に巻いていたカッターシャツと、女の上着を取って傷を見る。芳野はそこを極力見ないようにして重雄の後ろに立った。 「よくわからない……」 どこまで重雄に説明していいのか、芳野には判断がつかなかった。重雄は特に突っ込んで聞かず、腹の傷を調べた。 「芳野、ちょっと見てみろ」 重雄が席を立って、女の腹を指し示した。女は上半身裸で乳房まで見えていたが、芳野はそれを見る暇もなく驚愕した。 腹の傷は、なかった。傷のあった周辺には血がしっかりこびりついてるが、中心部には真っ白な肌が見えていた。血がなかったら単なる綺麗な裸体だ。 「そんな!俺が見たときはでかい傷が」 重雄はしかめっ面だ。芳野の話が信じられないと言うより、自分の目が信じられないという顔をしている。 「お前が見たものが正しいかどうかは知らんが」 重雄が女の腹のあたり押す。腹は何の抵抗もなくありえない深さまでへこんでいた。 「内臓が足りないな」 芳野は女の顔を見た。頬の傷もすっかり塞がって、血の跡だけが残っている。改めて女の異常性を思い知らされる。 「よくわからんが、とりあえず生きていることは確実だ。どう処置していいのかさっぱりわからん」 重雄が女にシーツをかぶせる。女は自然な寝息を立てていた。 「それより、お前も怪我してるじゃないか」 重雄が芳野の右手に気付いた。芳野は真っ赤に染まったTシャツをはずしてベッドの脇の椅子に座った。噛み千切られてぐちゃぐちゃな切断面からピンク色の肉が見え、血が吹き出していた。重雄が綿糸で肘の下をきつく縛ると血の勢いが止まる。脱脂綿で血をあらかた吸い取って、消毒液を大量にかけて傷口を洗う。芳野は激痛を覚悟したが痛みはそれほど感じなかった。最後に包帯をくるくると巻く。芳野は重雄の手つきをずっと眺めていた。 「これは……食われたのか?あの女に」 芳野は無言で頷いた。黙っていても、女の異常さを隠せるとは芳野には思えない。他にいいごまかし方も出来ないため、素直に頷くしかなかった。 重雄は奥に一度引っ込み、二本の注射器を持って現れた。そのうちの一本を芳野に刺す。神経が麻痺してるのか、針の痛みは殆ど感じなかった。もう一本の注射器を持って重雄はベッドに向かう。 「麻酔だ。効けばいいけどな」 重雄が女の腕に針を刺す。女は少しうめいたが、起きる気配はなかった。 重雄が部屋を移るように芳野に目で合図し、部屋を出る。芳野もそれに続いた。 診療所はさっきまでいた診察室、表玄関から最も近い待合室、重雄の眠る寝室、そして台所に分かれている。芳野は廊下を戻り寝室に行き、重雄は台所へ向かう。10分ほどしてお湯の入ったやかんを持って重雄が戻ってくる。芳野は重雄の入れる茶を受け取って一口飲んだ。 「腕は大丈夫か」 「うん、全然痛くない」 鎮痛剤が効いているようだった。 「ずいぶん落ち着いてるな。普通もっと取り乱すもんだと思ったが」 「驚いてるけど、どう反応していいかわかんないんだ。叔父さんこそ、なんでそんなに冷静なんだ?」 重雄は煙草に火をつけて一息吸った。何を言おうか考えている顔だ。 「俺だって似たようなもんだ。うん、なんで死んでないのか不思議なくらいだ」 どうも重雄の様子がおかしいと芳野は思った。いつもの重雄なら重傷の患者にだって笑えない冗談を平気で飛ばす。 「それだけじゃない。俺の手を骨ごとそのまま食べたんだぞ。どう考えたって人間じゃない」 重雄が困った顔をして棚からカルテを適当に抜き出してぱらぱらとめくる。 「叔父さん」 「じゃあ聞くが、相手が人間じゃないと思ったのなら、なんでここに連れてきた?」 「それは……」 (わたしは……) 芳野は女の声を思い出す。 「あの子が、生きたいって言ったから」 「あれが人を襲ってもか?」 芳野は重雄の台詞に違和感を感じた。自分の手が食われたのが事実だが、女がいつも人を襲っているかは芳野にもわからない。 「やっぱり叔父さんは何か知っているんだな?」 重雄はばつの悪そうな顔をして、煙草を灰皿に押しつけた。芳野のまっすぐな視線から目をそらす。 「推測だぞ」 芳野は無言で頷いた。重雄がため息をつく。 「俺の行ってた大学にある噂だ。戦時中、俺の学部の研究者たちが人体実験をやってたって話がある。アーティファクトって名前の計画だ」 「アーティファクト?」 「『人の造った物』って意味だが、要は人間を改造する研究だ。当時は戦争に勝つためにどんな非合法なこともやってたらしいからな。人体実験とかの噂はどこの大学にもあるんだが、やけに生々しいのがその特徴だ。人間をどこまで改造しても肉体の強さはそれほど上げることができない、よって『怪我をしても死なない』ことを目標に造られたらしい。肉を削られても骨を断たれても、失った物質を補給することで、一瞬にして回復できる」 芳野は重雄が何故この話をしたのかわかった。芳野が食われたのは左手だけ。女は腹の傷を見た目だけ完全に回復していた。 「あの子が改造人間だって?その話はただの噂なんだろ。それに、何十年前の話なんだよ」 「だから推測だと言ったろうが。俺だってこんな噂信じちゃいなかったがな。あんな不思議な状態見せられたらそう思いたくもなる。人体実験自体は恐らくあったと俺は思ってるがな。見た目と年齢が一致しているとも言い切れんしな」 叔父が凄んでみせた。 芳野は言葉に詰まった。確かに、常識だけで考えていては話ができない。 「やっぱりあの子に聞いてみるしかない」 「そうだな、それでどうするんだ?」 重雄は芳野の意見に賛成した。重雄も、自分の推測が空想の域を出ないことを自覚しているのだろう。 「どうって?」 「あれの目が覚めて、話ができたら話をして、それから?」 普通、怪我人を助けたら素性を聞いて、親に連絡するなり何なり、家に帰るまでの面倒を見るだろう。女に帰る家はあるのだろうか。 「……それも、聞いてから考える」 「まあそれでいいか。んじゃ今日はもうさっさと寝ろ。明日は多分熱出るぞ」 重雄はドアに鍵をかけて芳野に布団を引くように命じる。親への連絡は重雄が適当に話をつけた。芳野はなくなった左手を見ながら、家族がこれを見てどういう顔をするか考えて暗い気持ちになった。 |