戻る?
 芳野の祖父は農家だった。年中働く祖父の家に家族で帰省するとき、芳野はいつも気が重かった。祖父の家で出る食事は彼の作った野菜がほとんどで、妙に不揃いの野菜の料理が芳野は苦手だった。祖父は日中殆ど畑にいて、夜は誰よりも早く寝た。芳野が祖父の顔を覚えたのは四回目の帰省の時だった。
 ある日、祖父は芳野を蜜柑畑に連れていった。木には小さな実が沢山ついていたが、祖父は葉の裏に隠れている青い実を取っていってくれ、と芳野に頼んだ。芳野が一つ実を取ると、祖父はそれを地面に捨てるように言った。
「ゴミを地面に捨てていいの?」
「ゴミやなかよ。大切な肥料ばい」
 土から栄養をもらってできた実が、また土の栄養になり、再び木の一部となるのだと祖父は説明した。芳野は何個も実を取って、地面に捨てていった。
 休憩中、芳野は祖父の目を盗んで、黄色く生っている蜜柑を一つ掴んだ。急いで食べた蜜柑は思わずむせるほど酸っぱかった。祖父が芳野の頭を弱く叩いた。祖父は手によく熟れた蜜柑を持っていた。
 休憩が終わり、祖父は芳野が実を取る度に芳野を誉めた。芳野は日暮れまでその蜜柑畑にいた。
 父に、酸っぱい蜜柑の話をすると、父は楽しそうに笑った。
「蜜柑が一番甘いのは人間に例えると何歳ぐらいかわかるかな?」
「ん……ニ十歳くらい?」
「七十歳くらいだよ」
 それからの父の話は難しくてよく覚えてない。細胞がどうのこうの、の話だったと思う。父の例えた年齢は祖父とそう変わらなかった。
 それから、相変わらず芳野は帰省が嫌だったが、田舎へ帰れば祖父の作業を手伝った。一日の半分を祖父と過ごした。
 祖父は三年前に死んだ。前日まで家で仕事をしながら、静かに息を引き取ったらしい。葬式の時の祖父の顔を見た時、芳野は悲しかったが、安らかに眠る祖父の顔を見て、すごいと思った。祖父は死ぬことが怖くなかったんだと芳野は思った。その日から芳野はこう言うようになった。
「死ぬんなら、俺は老衰で死にたい」
 そんな当たり前の願いを人生の目標に掲げた芳野の人生は、至って平凡だった。

 芳野は目を覚ました。見慣れない白い天井を見て、自分が昨日診療所に泊まった事を思い出す。隣のベッドを見ると重雄の姿はなかった。窓から入る日差しは高い。重雄は診察をしているのだろう。ズボンのしわを伸ばしつつ、血で汚れたカッターシャツを探す。シャツの脇に、重雄が別の服を用意してくれていた。
(学校……完全に遅刻だな。着替えを取りに戻らないと)
 家に帰って着替えなければならない。ボタンを留めようとして、左手がなかったことに気付く。痛みは殆どない。重雄が出ると言っていた熱も普段と変わりない気がする。
 部屋を出て、診察室に行った。
「じゃあ次はニ週間後だ。一日でも遅れたら一時間ごとに電話してやるからな」
 重雄と雇いの看護婦が、一人の患者を返す所だった。重雄は芳野に気付いて、看護婦に耳打ちする。看護婦は受付の方へ去っていった。
「おはよう」
「ああ、お前熱はないか?」
 重雄は芳野の額に手を当てる。
「平熱だな。大怪我の後は大抵熱が出るんだが。よっぽど丈夫なんだな、お前」
「そんなことないけど。あの子は?」
 芳野は話を切り出した。重雄が後ろのベッドを親指で指し示す。どうやらまだ寝てるようだった。
「よくわからんから丸一日眠るくらいの量打ったからな。まだ目は覚まさないと思うぞ」
 次の患者は来ない。おそらくさっき重雄が看護婦に待ってもらうように言ったのだろう。
「大丈夫かな。もし患者がいるときに目を覚ましたら……」
「心配ない。打った麻酔は先に頭だけ目が覚める。聞きたいことを聞いたらまた打つさ」
 悪役のような重雄の笑いに芳野は女に罪悪感を感じるが、確かにそうするのが一番いいと思った。
「目を覚ましたら呼んでやるから、奥にいとけ」
 芳野は首を振った。
「気分も悪くないし、いったん家に帰るよ。服も着替えたいし」
「そうか。何かあったら連絡する」
 芳野は腹に手を当てた。酷く腹が減っている。重雄は看護婦に手で合図した。看護婦が次の患者の名前を呼ぶ。芳野は診察室を出て、診療所を後にした。

「あ、鞄」
 芳野は今になって公園に鞄を忘れたことに気がついた。
 昼の公園はセミの声でうるさかった。これからどんどん熱くなるという時間帯に公園にいる人は殆どいなかった。遠くにある池の水面が蜃気楼で歪んで見える。芳野は例の場所に戻って鞄と昨日買ったおにぎりが入った袋を回収した。血痕が残っていたが、目立たないしじきに消えるので放っておく。
 雑木林を抜けた所で、芳野はいきなり声をかけられた。
「ちょっといいですか?」
「!?」
 芳野は驚きながら、話しかけてきた男を見る。中肉中背で、かなり頬がこけている目つきの悪い男だ。笑顔のつもりで浮かべているのか、薄ら笑いがより男の存在を怪しくしている。
「ああ、怪しい者ではありません」
 怪しかった。まず怪しい者ではないと言うところが特に。
 男は警察手帳を見せて、さらに手帳の中身を見せた。男の写真と、「天地秀治」の文字。
「何か……」
「この辺で人を探しているんですが。知りませんか?」
 秀治が次に見せたのは写真だった。半ば予想していたからか、その写真にあの女が写っていることに、芳野は驚かなかった。人の少ない時にも関わらずここで聞き込みをするのは、この公園に何か関係のあることだと予想したからだ。
「家出、ですか?」
 芳野はできるだけ何も知らないという風を装った。
「いや、そういうわけではありません。御存知ないのなら結構です」
 秀治はあっさりと引き下がって、御協力に感謝します、と事務的に言った。秀治は去ろうとせず、芳野の表情を観察していた。芳野はいえ、と呟いて秀治の横を通りすぎた。五、六歩歩いた所で秀治が芳野を呼びとめた。
「ああ、そうそう」
 振りかえると、秀治が見ていた。薄ら笑いは消え、能面のような無表情が顔を覆っている。
「その左手はどうしたんですか?」
「前に事故ったんです。バイクで」
 予想されていた質問だったので、芳野は即座にそう答えた。秀治が真顔で芳野の目を見つめてくる。芳野は視線を正面から受け止める。秀治の顔に再び薄ら笑いが浮かぶ。
「そうですか。御大事に」
 それだけ言って秀治は手を振って去っていった。今度は芳野が止まって、秀治が消えるのをずっと見ていた。
(目を逸らした方が自然だったかな……)
 秀治が警察の人間だとは思えなかった。警察手帳は本物っぽいが、芳野は本物を見たことがないので説得力がない。捜査は普通二人でするものだ、と芳野は映画で見たことがある。何より雰囲気自体怪しい。やはり非常識な存在には非常識なものが関係してくるのだろうか。
 最後の秀治の顔は普通ではなかった。獲物を品定めするような冷たい目だった。芳野の鼓動が今になってようやく速くなってくる。
「日々平穏に過ごしたかったのにな」
 芳野は一人呟いて家に戻った。

[EOF]
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