公園から歩いて十分、車の少ない私道に面して家はあった。芳野は生まれてからずっとこの二階建ての家に住んでいる。 芳野の家は共働きのため、昼は誰も家にいない。芳野は台所に向かうが、作り置きされている料理がなかったため湯を沸かしてカップ麺を二つ食べた。身体の細い芳野にはこれで普段は十分過ぎる量だったが、今はまだ物足りなかった。 「何かないかな……」 冷蔵庫を開けてすぐに食べられそうなものを探す。ソーセージがあったので二本剥いてそのまま食べた。 (あんまり美味くないな) 腹はまだ減っていたが、これぐらいが適量だろうと判断して麦茶を飲む。時間を確認すると午後ニ時を回っていた。 (そうか、叔父さんのは午後の診察だったんだな) この時間から学校に行くのも意味がないし、元々行くような気が起きなかった。 芳野は階上にある自分の部屋に戻ってブルーのジーンズと黒いTシャツに着替えた。やることがなくなったのでベッドに寝転び、自分のなくなった左手を見る。包帯が器用に巻いてあった。 痛みがそれほどないことに芳野は疑問に思った。単に縛って血を止めただけで大した治療はしていないはずなのに、こんなに痛みがないのはどういうことだろうか。包帯の内に隠れている左手が、どうなっているのか芳野は知ろうと思うが、勝手に包帯をはずしていいものか迷う。 「……巻き直せばいいか」 芳野は案外きつく巻いてあった包帯をなんとかはずす。左手は、相変わらず肉が剥き出しになったままだった。血は完全に止まっている。包帯についている血もそれほどない。芳野はその違和感に気付く。再び出血を覚悟しながらも、芳野は血止めの綿糸をはずした。血は一滴も流れない。 (どういうことだ……!) 芳野の顔に冷や汗が浮かぶ。自分の身体が何か確実に変化している。 (まさか、伝染するのか) 自分も人を襲うようになるのだろうか、と芳野は思った。あれだけ食べても腹が減るというのは、もう人間の肉でしか満たされない身体になってしまったのだろうか。 (そんなことはない!) 芳野は首を振った。自分が人を食べる所を想像して、昨日の感覚が蘇り、吐き気がした。あんなおぞましい食事をしたいとは到底思えない。そう思えるということは、自分がまだ人間であることの証のように芳野は思った。 自分はまだ大丈夫だ、と安心した所に、芳野の携帯電話が鳴った。一コールで電話番号を確認して通話ボタンを押す。叔父からだった。 「悪い、逃げられた!」 一言目がそれだった。誰にかは聞かなくても察しがついた。 「逃げたって、なんで?」 麻酔作戦は失敗したんだろうか。 「あいつ、とっくに麻酔切れてたのに寝たフリしてたんだ。大して話聞けないうちにすっ飛んでいきやがった」 芳野は半分落胆、半分安心した。叔父の口調から、死人や怪我人が出ていないことが芳野にはわかった。結局女が何なのかわからなかったのは残念だが、未知の化け物が叔父や患者たちに手を出さずに去ってくれただけでもありがたい。 「おいお前、今家か?」 「そうだけど」 「絶対一歩も出るんじゃねえ。あれがお前を噛んだことを教えてやったら一目散に飛んでいきやがった。文字通り飛んでだ。なんでか知らんがあれは絶対お前のとこにいくつもりだ」 一難去ってまた一難だった。叔父たちを巻き込まなかったのはいいが、今度は自分を追ってくるとは。 「わかった。とりあえずじっとして……」 玄関のチャイムが鳴る。音は携帯を通して叔父にも聞こえたようだった。 「出る必要はない。鍵はかけてあるんだろう?」 「うん」 芳野はとりあえず玄関まで忍び足で歩く。鍵はかかっている。靴を履いて覗き窓から外を見ると、見慣れた顔があった。 「大丈夫、友達」 「なんだ、じゃあ、とりあえずあがってもらえ。できるだけ玄関から顔を出すなよ。」 叔父が通話を終える。二回目のチャイムが鳴った。芳野は鍵を開けてその人物を出迎えた。 「やっ。お見舞いに来たよ……って、なんか元気そうだね」 赤井聡美だった。ブラウスとスカートの制服、右手にどこかのケーキ屋の箱を持っている。 「……学校は?」 「めったに休まない友人が不慮の事故って聞いて、いてもたってもいられなくなって」 目で涙をぬぐう振りをして聡美が言う。無論拭き取った手には水一滴ない。演技過剰ではあったが、心配してきてくれたことは確かなので、芳野は胸の内で聡美に感謝した。 聡美が芳野の左腕を見て顔を強張らせた。包帯を取ったのを忘れていた。芳野は慌てて左腕を背中に隠す。 「さっきはずれたんだ」 「だ、大丈夫なの、はずしてて。痛いんじゃない……?」 聡美がたどたどしく聞いてくる。ここまで重傷だとは思ってなかったのだろう。もしくは例え思っていても、実際に見た衝撃は大きかったのかもしれない。芳野は包帯をはずしたことを少し後悔した。 「今は麻酔が効いてるから」 これ以上聡美に心配させないように、芳野は嘘をついた。痛くないのは本当なのだから、完全に嘘ではない。 「あ、片手じゃ巻けないよね。あたしやるよ?」 聡美にこれ以上傷口を見せるのは躊躇われたが、確かに一人では巻くのに難儀するだろう。芳野は聡美の提案を喜んで承知した。 「おじゃましまーす」 聡美がドアを閉める。ドアの閉まる音と共に、芳野の意識が薄らみ始めた。頭は起きているが、身体が自分の意志通りに上手く動かない。かろうじてバランスを保っているという感じがする。 玄関から上がらない芳野を聡美が不思議に思う。 「どうしたの?」 いや、と芳野は答える。芳野は聡美の方を向いていた。聡美の肩に右手をかける。 「ちょ、ちょっと、水上君?」 聡美の顔が目の前にある。芳野はゆっくり顔を近づける。聡美の慌てる顔がスローモーションのようにはっきり見える。芳野の意識はもう殆どなかった。 芳野の顔が下がる。口がわずかに開く。目は一点を捉えていた。聡美の左肩。 (何を……) 芳野に残っているわずかな意識が警告を出す。身体は言うことを聞かなかった。芳野はその先の光景を見まいと目を瞑ろうとする。 目は瞑れなかったが、芳野は予想する光景を見ずに済んだ。芳野の口が聡美の肩に近づく前に、聡美の唇に触れていた。芳野の意識が急速に戻ってくる。たっぷり十秒ほどそうした後、芳野は事態に気付いて慌てて聡美から離れる。 「ご、ごめん」 「こんな玄関前でいきなり……」 聡美の頬が赤い。が、芳野はそんなことに気を取られている暇がなかった。 (今俺は何をしようとしたんだ!?) 自分のしたことははっきりと覚えていた。自分は間違いなく今聡美を食おうとしたのだ。何の意欲もなく唐突に。芳野はまだぶつぶつ言っている聡美を見ないようにして、家を飛び出した。 「え!?水上君どうしたの!?」 後ろで聡美の声が聞こえたが芳野は振り返らなかった。芳野は全速力で走った。 500mほど走って、芳野は止まった。息は全然切れていなかった。自分の身体が怖かった。 |