芳野は人のいない方へ向かっていた。人が視界に入る度に走って逃げたので、自分のいる所がどこかよくわかっていなかった。辺りを見渡せば薬品や製鋼の工場が道路を挟んで建っている。時折通りすぎるトラック以外に動くものはほとんどない。 芳野は行き止まりの細い路地で床に座り込んだ。機械の規則的な音色が絶え間無く響く。疲れてはいないが、座っていた方が落ち着く。 左手を眺める。剥き出しの肉に、うっすらと肌色のものが覆い始めている気がする。触ってみるが痛みは殆どしない。芳野は自分が人間で無くなったことを痛感した。 (俺は人を食ってしまうんだろうか) 理性では否、と告げるが、自分の意志が何の役にも立たないことはさっきわかった。遠くから誰かの話す声が聞こえ、芳野は一層奥に身を潜ませる。人数は二人、声からするに中年男性の二人組、200メートルほど先をゆっくりこちらに歩いて来ている、と芳野は音だけで判断した。自分でも信じられないくらい感覚が冴えている。 (これもあの化け物の力なのか?) 二人組はこちらに気付かず通り過ぎていった。服装からして、このあたりの作業員なのだろう。 (これからどうすればいいんだろうか) 芳野は考えるが、なにもいい考えは浮かばなかった。人間に戻れるなら、戻りたい。それができなければ、なんとかこの身体で生活できるようにするべきだが、家には帰ることができない。家族をこの口で食べることになるのは最も恐れることだった。だからと言って、芳野には自力で生きていけるだけの能力は無い。 (じいちゃんなら、いけたかもな) 芳野は腹に手を当てる。食べたものはちゃんと胃に入っている。消化もできている気がする。これ以上食べ物が欲しいかと言うと、それほどほしくはない。が、どこか違う所で酷く空腹を感じるのも事実だった。 (肉を削られても骨を断たれても、失った物質を補給することで、一瞬にして回復できる) 重雄の推測が合っているのなら、この左手を治せば、空腹は収まるのだろうか。しかし治すという事は、すなわち人を食うということだ。 (死体でもいいのかな) 芳野はハイエナのように人間の死体を貪り食う自分の姿を想像して吐き気がした。だが、それで人間を襲わずに済むのなら、やってみる価値があるかもしれない。 「己の不幸を嘆くより、現在できることをしろ」 芳野は自分に言い聞かせる。 足音が聞こえた。それは唐突に、芳野の近くから聞こえた。まるで空を飛んでいたものがそこに着地したように。 (文字通り飛んでだ) 芳野は空を飛ぶ人物に心当たりがあるのを思い出した。陰から、音のした方をそっと覗き見る。自分の手を食った、あの女だった。診療所の患者用のガウンを来ている。こちらには気付いていないようだった。 (隠れるべきか……) 芳野は迷ったが、人間から逃げて、さらに女からも逃げれば自分の居場所がどこにもない気がした。そんな考え方をしたことから、自分が女に親近感を抱いていることに気付く。 (彼女も俺みたいに誰かから移された……?) 意を決して芳野は路地から身を乗り出し、女と真正面で向き合う。昨日会ったときとは違い、その目は怯えているように見える。 「昨日公園で倒れてた子だよな?」 芳野は努めて平静に話しかけた。手を食われたときのことを思い出して少し震える。女は驚いた顔をする。 「どうしてそれを……。あなたは……?」 「俺は水上芳野。昨日君を病院まで連れていったんだけど、覚えてない?」 重雄も名乗ったのだろう、水上という苗字に女は反応した。女は芳野の左手に気付く。 「あ……あなたが、わたしが、噛んだ人……」 女が細く小さい声で話すが、芳野の耳には全部届いた。女が俯いて、涙がこぼれた。 「お、おい」 「ごめんなさい!」 女が深くお辞儀をする。まさか謝られるとは思っていなかった。芳野はぼろぼろと泣く女をどうたらいいのかわからなくて、呆然とその光景を見ていた。 「わ、わたしのせいで、あなたまで、こんな体に」 女は謝り続けた。なんだかわからないが、芳野はとりあえず女の顔を上げさせた。 「もう、過ぎたことだしどうしようもない。それより、君は一体何なのか教えてくれ」 「……はい。昔、アーティファクトと呼ばれる実験があったそうです」 話の内容は叔父とほぼ一緒だった。だが、それは一種のウイルスの開発計画だった。 「このウイルスに感染したものは普段は人と同じように行動できます。力や生命力は人間以上になって。けれど、誰かと二人きりでいるとき、特に親しい人といるときに半ば無意識的にその人を襲います。襲われたものは死なない限りウイルスに感染して、また人を襲っていく……」 「……」 ドーピングの意味だけでなく、細菌兵器としての使い方もできるウイルス。芳野はこれを開発した研究者たちに殺意を持った。 「なんて奴らだ!」 コンクリートの壁を殴る。分厚かったらしく、音はそれほどしなかったが、壁がわずかにへこんでいた。 「治す方法はないのか?」 女は無言で首を横に振る。 「八方塞がりか。これからどうすりゃいいんだ……」 芳野が愚痴をこぼす。女が唇を噛んだ。 「これからなんてありません。あってもそれは地獄です」 「え?」 芳野が聞き返す。女が立って拳を握り締めて構えていた。中国拳法のような奇妙な型。目にはまだ涙が浮かんでいる 「さようなら。ごめんなさい」 女がその場で正拳突きのような動作をする。無論、離れていた芳野に当たるはずも無いが、芳野は肌で、見えない何かが自分の顔にやってきているのを感じだ。何かが顔に触れる瞬間、芳野は後ろに体を倒して直撃を避ける。それでも身体に大きな衝撃が来て芳野はそのまま倒れた。芳野の顔があった空間が弾け、周辺のコンクリートの壁を幾らか削った。女が何かしたのは明白だった。女は信じられないという目で芳野を見ていた。 「避けた……?」 芳野は転がって身体を起こした。女との距離が開いてしまったが、とりあえず芳野は叫ぶ。 「何をするんだ!」 女が芳野の声に身体を震わせる。女は俯いて押し殺した声を出した。 「あなたがこうなってしまったのはわたしの責任ですから」 再び突き。今度は余裕を持ってかわす。遠距離戦では倒せないと思ったのか、女が踏みこんでくる。三度目の正拳突きを、振りきる前に右手で止める。女の力は昨日と同じくらい強かったが、芳野はそれを受け止めることができた。だが、受けた手からやはり何か衝撃が伝わるため、ダメージを全く殺すことはできない。 「俺はここで死ぬわけにはいかないんだ」 鋭くなった感覚を駆使し、攻撃をできるだけ避けて、避け切れない攻撃は受け流す。少しずつダメージはたまってくるが、相手も動いているだけで弱ってきている。無傷に見えるようでも内臓が無いのだから、身体が万全ではないのだろう。 「生きたって地獄が続いているだけです。死んだ方がましです」 「そんなことは絶対にない!」 芳野が叫んで、女の右手を掴む。女が左手で殴ろうとするのを紙一重でかわし、自分の右肩を女の右脇につっこむ。女が何かするよりも前に、芳野は片腕で力任せに女を背負って投げた。一瞬の出来事に、女はろくに受身も取れずに背中から倒れる。左手が無いため、支えてやることもできなかったが、芳野は気にしなかった。 「じゃあなんで君は生きてるんだ!?」 女が息を弾ませて呼吸をしている。体が動かないようだった。それでも芳野の声は聞こえたようだった。 「わたしは……言われたから。生きろって、言われたから」 芳野は片膝をついた。攻撃を受けていた右腕が鉛のように重かった。 「その人は、嫌味で君にそんなことを言ったのか?」 「いいえ!そんなことは……ありません!」 女が初めて強い口調で言った。 「なら俺にも言ってくれ。生きろって」 女が芳野をじっと見つめた。 「いつ人を襲うかわからなくて……化け物と呼ばれて……それでも生きていたいんですか」 「ああ。できることがあるうちは、死にたくない」 女が地面に寝たまま再び泣き出した。今度は、声を上げて泣いていた。 「ごめんなさい……」 女が何について謝っているのか芳野はわかる気がして、安心した。身体がおかしくなっても、生きようとする人間を何の躊躇もなく殺せるような怪物になるわけではないということがわかったからだ。 芳野は女の傍らでずっと黙っていた。 |