戻る?
 赤くなり始める空の下、芳野と女はまだ座っていた。女が泣き止むと、芳野は立って、ズボンの土を払う。女に手を差し伸べる。
「名前、聞いてなかったな」
「あ……」
 女は手を取ろうとして、途中で遠慮するように引っ込める。芳野はその手を強引に取って女を立たせた。背中が痛むのか、少し屈んだ姿勢で立っているが、目は芳野のほうを向いていた。
「ゆずき……柚木未緒」
「わかった。よろしくな。ゆ……未緒」
 女が自分の名前を聞いて瞬きをやめた。
「あ、やっぱり苗字の方がよかったか」
 少し厚かましかったか、と芳野は反省した。名前で呼んだ方が仲間と感じられる気がしたから言ってみたのだが。
「い、いえ、それでいいです」
「そうか。俺のことも芳野って呼んでくれ」
 未緒がはい、と頷いたとき、奥の路地の陰からぱちぱちと拍手がした。芳野が何か言う前に、それはゆっくり出てきた。灰色の背広を着た頬のこけた男。天地秀治と名乗っていた刑事だった。
「御疲れ様でした。二人とも揃ったことだし、こちらの話を始めてもいいでしょうか?」
 相変わらず薄ら笑いを貼りつけている。未緒が明らかに敵意を剥き出しにした目で秀治を見ていた。
「そんな目で見ないでくださいよ。まるでこっちが悪者みたいじゃないですか」
「あんたは何者なんだ?」
 芳野が問うと、秀治が眉をしかめて残念だ、という顔をする。
「先程はちゃんと敬語使ってもらえたんですが。最近の若者はすぐこれです」
「嘘をつく人間に敬意を払うつもりはない」
 芳野はカマをかけてみた。秀治は予想していたのか、くつくつと笑って警察手帳を取り出した。
「これのことですか?まあ、それについては謝ります。手っ取り早く情報を取り出すにはこれがなかなか楽なんですよ」
 秀治が手帳をしまう。背広の前を両手で揃える。
「ですが、完全に嘘ではありません。一応国家公務員ですから。単刀直入に申しますと、あなたたちの保護に来たんです」
 秀治の薄ら笑いは変わらない。芳野にはそれが嘘かどうか見分けることができなかった。未緒は芳野の後ろに隠れるように立っている。
「保護?」
「ええ。正確にはあなたたちから一般人を守るための保護というわけですが。あなたも、何かの弾みで人を襲うのは嫌でしょう?だから感染者は一箇所に集まってもらい、そこで生活してもらいます。感染者同士が互いを襲うことはありませんから」
「嘘です!」
 未緒が芳野の後ろで叫ぶ。秀治が薄ら笑いをやめる。能面のような無表情からは何も判断がつかない。
「嘘は言っていませんが。……そうですね。マニュアルにはありませんが、彼女がいるなら隠しておくのは逆効果ですね。感染者は一箇所に集められますし生活もそこでできます。ただ、それには一つの義務が生じます。感染者は特務派遣隊への所属義務が生じます」
「特務派遣隊?」
 聞き慣れない言葉だった。
「主な任務は海外派遣です」
 芳野は話を聞いて絶句した。
 自衛隊は海外派遣を要請されても、軍隊に参加することはできない。憲法で戦力保持を認めていないからだ。だが、物資の補給だけでは、世界各国が納得しない。そこで日本が提案したのが、戦中の技術の遺産を活用することだった。その技術の性質上、公にはできないため、表面上は今も外国からは軍力の提供を求められているが、裏では有数の傭兵産出国となっているということだった。
「既に紛争解決のための軍力の十パーセントは日本の特務派遣隊の力です。ちなみに感染者に入隊拒否権はありません。いえ、それどころか感染者は社会的には何の権利も認められなくなります。戸籍からも抹消されますから」
 秀治は淡々と話す。事実のみを伝える口調だ。秀治の話が本当なら、芳野は既に死んだ人間として扱われるということだ。だが、秀治についていけば、閉鎖的な社会と、人殺しの日々しか待っていない。極秘裏に戦場へ送り出されるなど、みすみす捨て駒になりにいくようなものだ。
「それをお前達は保護というのか?」
「ええ。先程も言ったように優先されるのは人命ですから。そして、その中にあなた達の命は含まれていません。単刀直入に聞きましょう、おとなしく保護を受けてくれますか?」
「そんな話を聞いて承知すると思うか?」
「残念です」
 言うが早いか、秀治は背広の内ポケットから拳銃を取り出し発砲する。驚くほど早い抜き撃ちに芳野は驚いたが、弾道を目で捉え、未緒を弾き飛ばして避ける。秀治は少しだけ怪訝な顔をしたが、更に芳野に向けて発砲する。連続でニ発。芳野はそのニ発が自分の両肩を掠める弾道であったので、極力動かなかった。今度は秀治が能面のような顔を大きく崩す。
「今のを動かないで避けますか。どうやらサードフォースにも目覚めているようですね」
 芳野は秀治の拳銃が、警察で使われているものだと確認する。確か弾は五発まで入るやつだ。今の芳野なら、集中していれば拳銃の弾を避けるができる。相手の弾切れを待って逃げよう、と芳野は決めた。
「第三の力、と呼ばれる特殊能力に目覚める人はごく少数です。あなたなら、派遣隊の中でもかなり上の階級に行けますよ。それでもだめでしょうか?」
「いらない」
 秀治が笑った。今まで浮かべていた薄ら笑いとは違って、残虐な色の濃い笑いだった。
「そうでなくては……。保護を受け入れない感染者は捕獲して連行します。その際、どんな怪我を負われても文句は言えません。それでは……」
 秀治が芳野に拳銃を向ける。銃口の向きから弾道はほぼ予測できるが、芳野は相手が撃つのを待つ。数秒の対峙が過ぎる。
「後ろも気をつけたほうがいいですよ」
 秀治の言葉に芳野は動じなかった。目は常に銃口を向いているが、後ろの気配くらいは見なくてもわかる。
 秀治の銃口の向きが唐突に変わり、突き飛ばされて離れた位置にいた未緒を照準に捉える。未緒は明らかに後ろに気を取られていた。芳野が駆け出す。秀治が一拍間をおいて撃った。
 未緒の額目掛けて飛んでくる弾丸を、芳野は右手で掴んだ。貫通力の弱い弾丸はかなり勢いを殺しながらも芳野の右手を突き破る。芳野は右手に痛みが走ったことに安心する。自分は痛みを感じない化け物になったわけではない。その気持ちが、ショックで気を失うのを防いでくれた。
「芳野さん!」
 今度は芳野を狙って放たれる最後の弾丸を、芳野はかろうじてかわした。
「素晴らしい運動神経です。まったくもって惜しい逸材です」
 秀治が拳銃を懐にしまい、両手で背広の前を整える。油断しているのか、ごく普通の足取りで近づいてくる。芳野は右手が痛んで動けない振りをしてその場にうずくまり、秀治が近づいてくるのを待った。
「連行の基本は両手両足を折ることです。施設に行けば、食用の遺体も保管してあるのですぐに直りますよ」
 秀治が芳野の腕を取ろうと腰を曲げる。
(今だ!)
 芳野は穴の開いた右手で拳を作って、秀治のこめかみに気絶するように力加減をしてフックを入れた。拳は綺麗にこめかみに入る。だが、顔をしかめたのは芳野だった。
「言い忘れましたが」
 秀治が何事もなかったかのように芳野の右腕を左手で掴む。手刀が芳野の右腕を簡単に叩き折った。
「ぐあっ」
「私もアーティファクトなんですよ」
(なんだこいつは!?)
 今度は左腕を同じく手刀で折られる。秀治のこめかみも右手も、まるで鋼鉄のような固さと重さだった。
「私のサードフォースは凝固。身体の好きな部分をどこまでも固くできるんです」
 激痛にその場に座り込んだ芳野の足を、秀治が踏みつけようとする。未緒がさっきの不思議な正拳突きを秀治の顔面に向けて放つ。ガン、と音がしたが秀治は少しよろめいただけだった。芳野はその隙に秀治の脛を蹴りつける。脛もやはり鋼鉄のような固さだった。蹴りの反動で秀治から離れるように転がり、勢いで手を使わず起き上がる。激痛で立っているのが辛かった。
「遠当ての威力が随分と落ちていますね」
 秀治が未緒を睨みつける。未緒がびくっと立ちすくむ。
「まだいたんですか。どうせですからあなたは逃げていいですよ。一度に狩るのはつまらないですし」
 秀治はゆっくりと芳野に近づく。芳野は後退る。圧倒的な力の差のある敵に芳野は怯えていた。未緒も相手の力を知っているのだろう。その場に立ちすくんだまま動かない。
「どうしました。あなたは得意でしょう?仲間を見捨てて逃げるのが」
 未緒が大きく肩を震わせた。唇を噛んで、芳野のもとに駈け寄って肩に手をかける。折れている所に痛みが走る。
「ぐっ……」
「掴まっててください」
 未緒が芳野の肩と腰を固定して跳んだ。未緒の跳躍は人間のそれを遥かに上回っていた。二人はゆるい放物線を描きながら、工場の屋根を軽々と飛び越えた。芳野は薄れゆく意識の中で、秀治の静かな笑い声を微かに聞き取っていた。

[EOF]
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