戻る?
「赤井!」
 聡美が倒れると同時にその陰から二発目の銃弾が芳野の右足を貫いた。
「がっ」
 芳野もその場に崩れ落ちる。右の太腿から血が少しずつ流れ落ちる。聡美のいる辺りの地面は血が流れていない。確実に心臓を撃ち抜いたので、血が吹き出ないのだろう。聡美は時々痙攣するだけで、起きる気配はない。
 目の前で起きた理不尽な死に芳野の理性が飛ぶ。
「おまえぇぇっ!」
 芳野が叫ぶ。秀治は涼しい顔でそれを聞き、聡美に向かって片手で合掌する。
「ご協力に感謝します」
「どうして……」
 未緒が肩を震わせていた。
「どうしてそんなに簡単に人を殺すんですか?」
 秀治が何を今更、と肩をすくめる。
「我々の存在は表に出てはなりません。目撃者は消すのが一番手っ取り早い。それに、書類の上では殺したのは私ではありません」
 未緒が秀治をにらみつけた。さっきまで秀治に見せていた怯えの表情はなかった。未緒は走って秀治に向かっていく。秀治は拳銃を懐にしまい、構えらしい構えも見せずに対峙した。
「はっ!」
 未緒の拳が秀治の顔面を狙う。芳野の攻撃は効かなかったが、未緒の拳はガードしても不思議な衝撃が突きぬける。秀治もさすがに脳は固くさせられないだろう。だが、秀治もそれをわかっているのか、未緒の拳を的確に腕で受け止める。腕全体を固くさせているのか、未緒の拳が切れて血が流れ始めた。それでも未緒の攻撃は止まない。
 動きの鈍くなってきた未緒の右腕を、秀治が掴んだ。2本の指で未緒の肘を下から抉るように突く。
「ああっ!」
 突いた秀治の指が血に塗れていた。同じ指で、今度は左肩を突く。指が深々と突き刺さる。
「やあああぁっ!」
 秀治は腕を放し、未緒の胸を蹴り飛ばした。未緒は仰向きに倒れて、起き上がらない。秀治はさらに未緒に攻撃を仕掛けようと近づく。
「くそぉっ!」
 芳野は何もできない自分に怒りを覚えた。目の前で聡美が殺され、未緒が嬲られているのに、自分は地面に這いつくばっているだけだ。立ち向かわないと、と思っても怪我と恐怖のせいで体が動いてくれない。
 秀治が未緒の胸を踏みつけた。
「私としてはどちらを殺しても構わないんですよ。さて、あなたに選ばせてあげましょうか。あなたとあの少年、どちらを残しましょうか」
 秀治は残忍な笑みを貼りつけたまま、理不尽な要求を突きつける。
「細かい状況は違えど、あのときと同じですね。今度はあの男の代わりにあなたが答える番ですよ」
 未緒の目が再び秀治を睨む。何故未緒は秀治を恐れないのだろう、と芳野は思った。ここまで力の差が圧倒的なのに。恐怖よりもなお強いその感情は。
(怒りだ)
「わたしを……殺しなさい!」
 秀治の顔がますます狂気の笑顔で歪む。未緒を踏んでいた足が未緒の胸に沈んでいく。
「か……あっ……!」
「やはりあなたもあの男と同じ選択肢ですか。まあ、何にせよあなたの寿命はここまでだったようですね」
 骨の折れる鈍い音と共に、未緒が血を吐いた。未緒の身体全体が、柔らかい地面をへこませて、半分ほど埋まっている。
(寿命?)
 芳野は自分の中で恐怖が薄れ、別の感情が湧いてくるのを感じた。しわくちゃの祖父の死に顔が芳野の脳裏に浮かぶ。あれが人間の寿命だ。正しい生き方だ。聡美や、今まで殺してきた人たちの人生を勝手に閉ざし、そして今まさに仲間の命を奪おうとしている秀治に、芳野は純粋に怒りを覚えた。
(今の俺にできること、何かが絶対にあるはずだ!)
 芳野は周りを見渡す。波の立たない水面、断崖絶壁の土壁、その上にいる銃を持った人間たち、横たわる聡美。
(肉を削られても骨を断たれても……)
 できることはあった。あとはそれを実行する意志が芳野にあるかだった。芳野は地面を這って聡美の方へ近づく。折れた腕が地面を擦る度に痛んだが、芳野はひるまず前に進んだ。
 秀治は多少の物音には気付かないくらい興奮していた。芳野は聡美の傍まで辿り着いた。俯いている聡美の顔は見えないが、見たくなかった。自分がこれからすることを芳野は許せなかった。
 昔拾ったノートのことを思い出した。自分と同じ年齢の子がこんなに書けると思っていなかった。
 最初に話しかけたときのことを思い出した。これ以上ないってくらい真っ赤な顔をして、中身を見たか聞いてきた。面白かったと答えたときの嬉しそうな顔は一生忘れないだろう。
 次の小説の話をしていたときを思い出した。芳野が何を言っても、聡美は最後には強引に話を締めくくった。
 聡美が家に来た時のことを思い出した。勘違いした聡美は照れながらも自分にキスしてくれた。そのおかげで芳野は聡美を襲わずに済んだ。
 さっき目覚めたときのことを思い出した。懐かしい顔がそこにあって安心すると同時に、聡美の顔を懐かしいと感じるほど日常から離れた自分に泣きたくなった。
「聡美……」
 芳野は冷たくなった聡美の右手を折れた手で掴んだ。もうこの手がペンを持つことはない。自分が面白いと感じる話を紡ぐ力は失われてしまった。後は灰になって、再び大地に還るだけだ。
(土に還る前に、もう一度だけ俺を助けてくれ、聡美)
 芳野は聡美の右手に噛みついた。
 秀治がようやく芳野に気付いた。足にかける力は変えずに、興醒めした顔を芳野に向ける。
「所詮化け物は化け物ですか。どんな綺麗事を言っていても最後には自分の身が可愛いのですね」
 秀治が拳銃を抜いて芳野に狙いを定めた。迷うことなく引き金を引く。
 銃声。
 芳野が動きを止めた。折れていた右手をついて立ち上がる。秀治の弾は当たっていなかった。
「この……!」
 未緒が押し潰されながらも最後の力で遠当てを拳銃に当てていた。秀治は地面ごと未緒を蹴り飛ばす。未緒はぐったりしたまま動かない。
「……まあいいでしょう。何度やっても結果は同じです」
「お前はクズだ」
 芳野の台詞に秀治の顔が引きつった。
「弱い者にしか攻撃せず、強者には媚びへつらう、典型的な小悪党だ。事情のわかっていない感染者を嬲り、戦場を駆ける事に恐怖を抱く負け犬だ」
「知った風な口を……!」
 秀治と芳野が互いに近づく。ほぼ密着状態で、両者は睨み合う。
「お前のような弱虫に、俺は負けない」
「言いたいことは……それだけかっ!」
 瞬速の抜き撃ちを実現する右手で、秀治は芳野の心臓を狙った。秀治の指先が、芳野の左胸に触れる。
(殺った!)
 秀治は確信した。次に来る肉と骨の感触を期待して、秀治は興奮していた。だから、自分の視界が反転していることに気付くのに一寸遅れた。芳野の左手が復活して、秀治の右袖を掴んでいる。秀治は自分が投げられたことを理解した。
 自分が脳天からまっさかさまに落とされていることを悟った秀治は、受身を取ろうとする。が、芳野の鋭い感覚が、秀治の動きを読みとって力の流れを変えるので頭を逸らす事は無理だった。
(まあいい、頭を打ったところですぐに離れて上に合図すればそれで終わることだ)
 秀治は衝撃を覚悟した。首を固くすると衝撃が逃げてくれないので、致命傷になりかねない。だから、秀治は身体の関節という関節を固くしなかった。そしてそれこそ芳野が狙ったものだった。
 秀治が頭を打つことを覚悟して抵抗しなくなった瞬間、芳野は両手を放し、右足を振り上げた。秀治の頭が接触すると同時に秀治の頚椎を蹴り飛ばす。強化された芳野の足は、秀治の首の骨を完全にへし折った。
 即死だった。秀治は首をありえない方向に曲げながらそのまま倒れた。

[EOF]
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